2012年5月4日金曜日

ファシリテーションの心1

わけあって、今回から3回連続くらいで池山が思う、「ファシリテーションの心」みたいなものを書いてみたいと思います。第1回のサブタイトルは、「受け止める心」です。







ファシリテーターは中立、かつ公正であれ、と言われます。簡単に説明すれば、サッカーの試合のレフェリーをイメージしてもらえばわかります。AチームとBチームが試合をしている時には、当然利害が対立していますね。両チームとも勝つ、という結論はあり得ないので、ゼロ100の利害対立ですね。

試合の中に入ったレフェリーがもちろんどちらかに加担してしまったら、その時点でそのレフェリーは信頼を失ってしまいます(中東の笛、なんていう言葉もありますが(笑)))

しかし、通常の場合には、ファシリテーターも内部の人間であったり、リーダーであったりすることがあると思います。その場合に「中立」というのは非常に難しい部分が出てくるように思います。

しかし、サッカーの試合のレフェリーを考えてみると、通常の場合、例えば日本対韓国であれば、その2国以外、例えばシンガポール人の審判をつけることになります。つまり、これが「中立」ということですね。

そのことの本質を考えてみると、実は本来的に求められているのは、「中立」ではなく「公平」ということではないでしょうか。審判がどちらかに偏った時に、試合の勝敗の意義が大きく失われてしまう訳です。

チーム内の人がファシリテーションをする時には、「中立になれなくて」などと言われますが、以上のように、必要なのは「公平」または「公正」です。では、そのときに、どうしたら「公平」「公正」が保たれるのでしょうか。

そのためには、参加者からファシリテーターへの「信頼」が必要です。その「信頼」を得るためにはどうしたらいいでしょうか。それは、まず「私は今日は公平にファシリテーターをつとめたいと思います。皆さんの意見を評価したり、批判したりしないようにします。」と最初に宣言することです。そのうえで、「私が公平でない場合には、どうかみなさん、率直に指摘してください」と言うことが良いと思っています。こう宣言することで、ファシリテーターが「公平」であること、そして批判を受け入れることで、「公正」になろうとしていること、を参加者に伝えることができるのではないか、と思います。

宣言をしたファシリテーターは、参加者の意見を評価せずに「受け止め」ます。これは、「迎合する」や「同調する」とも違いますし、「批判する」「評価する」とも違います。ただ、その人の意見を、一つの意見として、人から切り離して「受け止める」のです。

人の意見の中には、その人の「想定」が入っています。これは、なかなか根の深いもので、あらゆる経験や、あらゆる知識、そして所属しているコミュニティや、家族、両親とのふれあい、などその人をとりまくあらゆるものがその人の中に入って、それがその人の「意見」の背後にある「想定」として存在します。

その「想定」を批評することは簡単ですが、その「想定」を否定してしてしまうと、対話は前に進むことができません。

ファシリテーターの心その1は「参加者の意見を評価せずに受け取る」ということになるのではないか、と思います。

2 件のコメント:

  1. 「中立」(干渉しない)ではなく「公平」(平等に接する)は似ているようで、全く違うと理解できました。
    また、公平な立場の宣言を伝えることも見落としがちですが、重要なことだと思います。
    多様性として、「想定」を理解する必要がありそうですね。
    内容について消化し理解できました。

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  2. 石丸さん
    そうですね、中立は実際問題として難しい場合が多いんではないでしょうか。社内とかだったら、基本的に無理ですよね。
    外部ファシリ、っていうのも日本の社会ではまだまだ認知度が低いと思いますし。
    「想定」というのは、非常に大きなキーワードだと思っています。「発言の背後にあるもの」といっても良いかもしれません。
    コメントありがとうございました。

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