2012年5月5日土曜日

ファシリテーションの心2

池山の考えるファシリテーションの心、ということで前回は「受け止める心」ということで書きました。今回は第2回です。サブタイトルは「書くことの力」とでもしましょうか。

前回は、参加者さんの意見を「評価せずにただ受け止める」と書きました。「受け止める」とういことは、「意見に同意する」ということではありません。「なるほど、あなたはこういう意見なんですね」と受け止める、ということだけです。そこには、評価も、否定も、そして賛同も、肯定もありません。ただ、あるがままに意見を受け止める、だけです。

人というのは欲があります。それは、マズローの欲求5段階説や、仏教の教えを考えてみてもそうですが、とどまるところを知りません。もちろん、池山の心の中にも「認められたい」とか「自分の意見を通したい」という欲求があります。

ファシリテーションの現場で参加者さんが発する意見の一つ一つの中には、大なり小なり、こういった欲が含まれていることが多いです。それは、「思わく」であったり、「利害」であったり、はたまた単純に「いいことを言うと思われたい」という欲であったりします。

参加者さんの発言にはそういった欲が張り付いていることが多く、そして、その意見を「無視」されたり、「否定」されたりすると、そこで不満が高まり、ファシリテーターに対する「信頼」を損ねる原因となります。

では、どうその意見を受け止めればいいのでしょうか。その答えは「書く」ことです。それも、ノートやメモではなく、みんなの見えるところに、「書いて掲示する」ということです。ホワイトボードに書くのが理想的ですね。でも、ホワイトボードは面積的なものであるとか、そもそも、あるかないか、という制約も多いですから、かいつまんでポストイットに書いて、壁に貼る、というのも一つの手かもしれませんね。

この「書いて掲示する」ということには二つの意味があります。今書いたように、発言 者さんの「欲」をなだめる、ということが一つ。もう一つは、「意見を人と切り離す」という側面です。

例えばポストイットに意見を書いて貼った場合を考えてみましょう。社会的地位の高い人の意見だからといってポストイットが目立つ、ということはありません。また、声が小さい人の意見だからといって、文字が小さくなる訳ではありません。

このように、「書いて掲示する」ことによって、意見は人から切り離され、客観的な一つの意見、として扱うことが可能になるのです。

ファシリテーターは「○○さんの意見」と言わずに、「この○○という意見」という風に扱うように気をつけないといけません。池山は突っ込んだ説明をもらうときには、「この○○という意見は誰が出してくれたんですか?」とわかっていてもあえて聞くようにしています。そのことで、意見を扱っているのであって、人に対する話をしているのではない、というアピールをしています。

このことで、結果として意見が人と切り離されているので、「参加者の安全」ということにもつながって行くと思います。

ファシリテーションの心その2は「書いて掲示する」ということでした。

2 件のコメント:

  1. あらためて、文字にしてもらうことで重要性など再確認できました。
    「この○○という意見」のくだりは、小さいことのようで大切なことだと思います。

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  2. 石丸さん
    おつかれさまです。その場の「安全」って大切だと思うんですよね。
    こんなこと言ってもばかにされないか、とか、あとで怒られないか、とか。
    そこで、意見を人と切り離してあげる事は、参加者さんの安全につながるんじゃないかな、と思っています。

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