2012年5月6日日曜日

ファシリテーションの心その3

3回連続でファシリテーションの心、について書いてきましたが、最後は「ファシリテーターの責任」ということについて書いてみたいと思います。

第1回では、「評価せずに受け止める〕第2回で、「書いて掲示する」ということを書きました。最後はファシリテータの現場へ向かう時の心についてです。

よく、「ファシリテーションするのは緊張します。だって、結論が出なかったら、と思うと責任重大ですよね」と言われることがあります。果たして、結論が出る、出ないはファシリテーターの責任でしょうか。

第1回でもサッカーの試合に例えましたが、ではAまたはBという結論が出るということを勝敗が決まる、とし、引き分けということを結論が出ない、としてみましょう。勝敗が決まらず引き分けることはレフェリーの責任でしょうか?Aチームが勝ったことはレフェリーの責任ですか?

違いますよね。ファシリテーターは「中立」かつ「公平」に関わる、と言いました。ということは、結論にも利害を持つべきではありません。結論に利害を持っているのはだれでしょうか。もちろん、参加者さんです。

これは妙な言い方かもしれませんが、ファシリテーターは結論には利害関係を持つべきではありません。そして、その結論の責任をファシリテーターに求めるべきではありません。では、ファシリテーターは何に責任をもつのでしょうか。

ファシリテーターが責任を持つべきなのは、結論に至る、あるいは至らないプロセスが「公平」なもので、「公正」なものであったか、ということだけです。多くの人の意見が出て、多くの人の意見を聞けて、そしてファシリテーターがいずれかの意見に傾くことなく、対話の場が進められたかどうか、そこにファシリテーターの責任があります。

落としどころのある会議、というものが時折あります。最近池山はこの映画を見ました。この映画は、ヴァンゼー会議といって、15名のナチスやドイツ政府の高官が美しい邸宅にあつまって、世にも恐ろしいアウシュビッツでのユダヤ人の虐殺を決定した会議の模様の実話(異論もあるようですが)を映画化したものです。このなかでは、既定路線としてユダヤ人のガス室での大量虐殺に向けて、秘密警察の局長ハインリッヒ・ミュラーを議長とし、有名なアドルフ・アイヒマンを副官にして会議が進められます。そこには、恫喝、根回し、誘導など、「落としどころのある会議」のよくない面が満載です。この場合には、ハインリッヒはその作戦の責任者で、もうやることは決まっていて、そこに対する同意を取り付けるためだけに開かれた会議、というものでした。つまり、議長(ファシリテーターとは言えません)が結論に対して大きな利害関係を持っていました。

もう一度確認しますが、結論に対してファシリテーターは責任を負いません。ファシリテーターが責任を負うのは、プロセスについてです。そのプロセスが「公平」で「参加者全員が納得できるもの」であることについては、ファシリテーターが大きな責任を負うことは確認しておく必要があるのだと思っています。

4 件のコメント:

  1. 確かに前に立つことは緊張はしますが、
    「ファシリが主役ではない」
    と理解できれば、緊張も和らぎますな。
    ヒーローやヒロインになる立場でもなく、
    大きな判断を背負う立場でもないんですからね。
    ヨネ

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  2. ファシリに求められるのは「自分」ではなく「役割」なんですね。
    ファシリテーターは「役割」に向かって行動すればいいので
    シンプルなんだなと思いました。

    会議に参加している人たちの方が
    いろいろと思うことがあるのではないかなあと。
    言葉の背景にあるものも含めて、交通整理ですね。

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  3. コメント投稿されていませんでした><
    ファシリテーターが役割を理解することは当然ですが、参加者の方にファシリテーターの役割を理解していただくことも重要に感じます。
    福島さんの交通整理という表現いいですね。

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  4. 米山さん、福島さん、石丸さん
    コメントをありがとうございます。
    ワークショップをデザインするときに最近気になるのが「結論に関しての利害関係」なんですね。
    その点で行けば、参加者さんには利害関係が本来はあるはずなんですね。
    利害関係のある人が当然結論にたいして責任があるはずだと思うんです。
    熟読してもらって、ありがとうございました。

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